卒部式のひと言 2005年3月卒部

工藤 文彦
 4年間川本先生ありがとうございました。これからも迷惑かけてしまうと思いますが、ご指導よろしくお願いします。
 僕にとっては何とかこの場に立てたという感じです。何度も道を踏み外しましたが、チームメイトの支えのおかげでこの日を迎えることができました。ありがとう。特に広樹と青木さんのことがこの一年何度も思い出され、この人たちにはすごく助けられたと感じ、こういう人をもてたことをうれしく思い、普通の学生なら気にかけてもらえないのに、気にかけてもらい、顔を向けてありがとうといいたいのですが、見栄っ張りで照れ屋なのでこの場を借りて言わせていただきます。
 1年前、青木さんが僕の話をしてくれ、僕のことをどれだけ思っていてくれたかを知り、とてもうれしかったです。この1年間短短ブロックを見てきて、短短は本当にいいブロックで力不足なブロック長を支えてくれて、もうありがとうという言葉しか出ません。まさか泣くとはおもいませんでしたが、泣いてしまいました。すばらしい人とのめぐり合いを大切にして、これからもやっていってください。あと1年ここで陸上させていただくことになったので、お邪魔かもしれませんがよろしくお願いします。
高橋香縫
 川本先生四年間ご指導ありがとうございました。 私にとって10年間続けた陸上が一区切りになるので陸上の話をしたいと思います。私が陸上をしようと思ったきっかけは中学1年生の時、バスケットボール部だったんですが体育の授業で100bを走って速くて、地区大会に出たことからでした。その時の先輩方がすごく良くて楽しかったという理由で陸上をしていくことになりました。でもそれがなかったら今の自分はないと思います。きっかけやチャンスは単純に近くにあると思います。気付かないところに多くあるので人との出逢いもですが一つずつのその場その場を大事にしていって欲しいです。四年間すごくいいことも悪いことも差の激しい四年間でしたがたくさんの仲間に支えられて今この場にたっていられます。みなさんに感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
天海 久
 川本先生、4年間ご指導いただき本当にありがとうございました。
 何を話せばいいか考えましたが、4年間の競技生活を一言で言うと、「ケガとの戦い」でした。僕は大学に入ってから肉離れを3回、脹脛靭帯、膝も痛めました。脹脛を大学2年の冬に痛め、治すのに7ヶ月。普通肉離れでも2ヶ月くらいで治るんですけど、靭帯はどう治せばいいかわからずに12,1,2月と治ったり悪くなったりの繰り返しで週5〜6日のペースでARKクリニックに通い、2月は28日しかないのに20日アークに通いました。そのままシーズンを迎え、東北インカレのエントリーで選手からはずれ、マネジャーになって部に貢献しようと思ったことがありました。当時のキャプテンの渡辺智幸さんに、「チームの力になれずにすみません」と謝ったこともありましたが、キャプテンは「確かにチームにとっても痛いことだが、お前にとっても痛いはずだ!チームのためにという気持ちがあったら、来年はそれを乗り越えて出れるはずだ」といってくれました。それから選手としてまた頑張ろうと思ってリハビリをして6月にはまた走れるようになり、それからは体に気をつけるようになって4年生からはケガが無くなり(心臓が痛くなることはありましたが)、そして東北インカレではマイル優勝することができ、日本選手権リレーにも出させていただきました。ケガばかりだと落ち込むけれど、治ったら走る楽しみを得られる。サバイバル40秒走も、400+400+400も苦しいけれど、今も走れてうれしいという気持ちになる。治ったら練習が楽しくて仕方がありません。ここに来るまで先輩、後輩に励まされてここまでこれたことに感謝しています。みなさんありがとうございました。
谷田貝 聡
 川本先生、4年間陸上はもちろん人間として生きていくのに必要なことを教えていただいて本当にありがとうございました。
 何を話そうかと考えてきましたが、何を言っていいのかわかりません。ですが私からは「努力は嘘をつかない」ということを話したいと思います。私にとっては逆の意味になってしまいますが、自分のサボった分が回ってきたのだと思います。4年生になって、全カレ、日本選手権リレーを走ることができましたが満足はしていません。4年生の後半も努力が抜けていました。22大では100分の1秒差で決勝にいけなかったり、もっと努力していればよかったと思います。在校生には努力を忘れないでほしいです。自分では頑張っていると思っていてもどこか抜けているところが必ずあると思います。そして上には上がいます。そのことを自分にも言い聞かせて頑張っていきたいと思います。4年生の皆さん、本当にありがとう。在校生は本当に頑張ってください。
木田 真有
 4年間振り返ると、まず初めて大学に来て全カレのマイルリレーでアンカーを走って、みんな1番でつないできたのに私がラスト10mで抜かれて2番になってしまいました。ここから始まった気がします。この悔しさがあって日本選手権リレーでは勝つことができました。原田真理子さんが卒部式で全カレから日本選手権リレーまでの練習が楽しかったといってくれて、私もそう思い一人じゃなくて周りの3人も悔しがってくれたから頑張れたと思う。今までと気持ちが変わったからどんどん変われたと思う。中学からケガをしなかったけど4年でケガをして走れなくなって天海に「やっとケガ人の気持ちがわかっただろ」と言われました。その裏には「乗り越えたらすごい」という意味があったと思う。どうしていいのかわからないとき、坂水と久保倉の存在が大きかった。坂水は京都にってさびしくなるけど、新しい出会いを大切にして頑張ってください。私もさびしいけど乗り越えて頑張っていきたいと思う。福大はまとまりがあってすごいと思って、またその中で競技を続けるのでよろしくお願いします。
久保倉里美
 川本先生今までありがとうございました。
ここに立つまでの四年間陸上を楽しんでできたこと幸せだと思います。私は、2・3月の練習が嫌いで、毎日グチばかり言っていました。でも、坂水と木田は毎日私のグチを聞いてくれて、この二人が居なかったら私はこの場に居なかったと思います。今まで卒部式ではずっと後で泣いていました。先輩方の話に仲間や両親が大切だと言っていましたが、その話を自分に置きかえてしまい泣いていました。私が初めて福島大学の練習に来たのはいわきの合宿でした。練習はとても辛くて、メディシンボール投げでもとても辛かった。その頃は陸上の何が楽しいの?という質問に答えることができなくてそれが悩みでした。川本先生が「心が変われば体も変わる」と言っていましたが、私はいろんなことがあっても簡単に心は変われないと心の中に境界線を引いていて、二年間目標がなく陸上をやっていたのでもったいないと思っていました。でも、大阪グランプリで真希子さんが外国の選手と競っているのに私は全然遠くて、私も世界に向けていきたいと思うようになった。授業でどういうトレーニングをしたらいいのかなど知ることができて、それから陸上が楽しくなってきた。後輩が入ってきてみんなをまとめなくてはならなくて、私はあまりできませんでしたが他の4年生に助けてもらってきました。4年生には本当にお世話になってこの学年で陸上ができてよかったです。入学した頃は北海道にいるお母さんには毎日電話をしてグチを言っていました。お母さんは私の姿が見えないのでとても心配して毎日何も言わないで私のグチを聞いてくれて、「あなたが好きなことをやっているのだからがんばりなさい。辛かったらいつでも帰ってきていいよ。」と言ってくれて遠くから見守ってくれていた両親にはとても感謝しています。みんなも助けてくれる人がいて、陸上は個人競技ですが仲間はとても大切です。私に負けないくらいこの学年でよかったと思えるようにしてください。そして、縦と横のつながりを大切にしていいチームにして下さい。

坂水 千恵

 まず、私も最後まで、みんなでここまでやってこれてよかったなと思います。私は気が強くとてもおしゃべりな性格なので、ここにいるほとんどのみんなと言い合いをしたと思います。そんな思い出はたくさんあるけれど、本音で言い合えたことは良かったと思います。また、私は後輩が近くにいるとすぐに話しかけたくなってしまいます。女子キャプテンになってからは特に、いろいろな人の悩みや相談を聞くようになりました。それまでは、「この人はこういう人なんだ」というような固定観念のようなものがあったけれど、話してみるといろいろ考えていることがわかったり、自分とは全く考え方が違ったりしました。人と話をすることは大切で、走することでその人の見方が変わったりします。池内や塩沢と話したりして、練習に来ているとうれしい気持ちになったり、工藤が久しぶりに練習に来たときもすごくうれしかったし、天海のケガが治ってよかったなと思ったり、柾谷の「コツをつかめました!」といううれしそうな顔を見たり・・・そういうのが楽しくて毎日グラウンドに行ってました。みんなせっかく同じグラウンドで陸上をしている仲間なのだから絆を大切にしてほしいです。私たちの学年はすごい中のよい学年でしたが盛り上がる時は盛り上がるけれど長続きしない学年だったと思います。また、キャプテン一人に難を負わせてしまって、今年一年つらかったろうなと思うのが心残りです。でもみんなでやってこれた本当に良かったと思います。私はこれから京都の京セラに行きます。みんなと離れてしまうので行きたくないけれど、ホームページなども見ながら、みんなも頑張っていると思って頑張ります。
佐藤 広樹
 本来ならば、ここに立ってみんなに話したかったのですが、着隊式と重なってしまい、卒部式と卒コンに出られないため手紙を書きたいと思います。川本先生、4年間後指導ありがとうございました。卒業にあたって振り返ってみると、東北インカレでのマイルの優勝や、国立22大での兄との1・2フィニッシュなど、多くのことを思い出します。1・2年のころは何となく練習していて、また、兄がいたので、兄の後ろを金魚のフンのようについていました。1年の沼田に負けることもあり、悔しくて泣いたこともありました。練習に行きたくないと思っていたこともありました。しかし、3年のときに、もう1度本気で強くなりたいと思うようになり、練習が終わってからも荒井さんや米田と一緒にウエイトをしたり、補強をしたりしました。その結果、初めて出場した全カレで2位になりました。4年間やって来られたのは先生をはじめ、OG・OBのみなさまのおかげだと思います。
1年生へ、1年間ありがとう。これからは先輩になるのだからそのことを忘れないで。
2年生へ、これからは3年生として新4年生のサポートを忘れないで。
3年生へ、最後の1年なのだからシーズンは悔いの残らないように頑張ってほしい。
自衛隊で陸上を続けるが、マイルやみんなのいる場所で走ることができないと思うと寂しいです。最後に、足立は強制的に陸上部に入部させたようなものだけど、陸上部に誘って本当によかった。足立と同じブロックで本当によかった。4年間ありがとう。

足立 周太郎
 川本先生、4年間ご指導ありがとうございました。4年間を振り返ってみると、楽しい陸上生活でした。高校では、陸上1本でやろうと思っていたのですが、中学のときに出した記録を1度も上回ることなく卒業してしまいました。大学は、私立の大学に推薦で入ろうとも思っていたのですが、国立大学に入学したらかっこいいかなと思って、センターのために勉強しました。センターでは、一番勉強していない生物で73点を取れたおかげで、福島大学に入学することができました。入学当時は、陸上競技を続ける気はなかったのですが、スポ健の自己紹介のときに陸上をやっていたと言うと、坂水に陸上部に入りなと誘われました。初対面なのに馴れ馴れしいなと思ったのですが、一人で寂しかったので誘われて嬉しかったです。初めてグラウンドに私服で見学に行ったときに、次はジャージで来いと言われて、次の日にジャージで見学に行ったところ、入部してしまった。入部当時は、ろくにバイトもできないし、楽しいキャンパスライフも過ごせないし、週5回の厳しい練習があったので後悔していました。でも、1年生のときに悪さをしてしまって、1ヶ月の謹慎になり、それをきっかけとして自分を変えることができました。それからは、自己ベストもびっくりするくらい出るようになりました。
主将になって、4年生のみんなや部のみんなに迷惑をかけてしまいました。もう1度やり直せるのなら、迷惑をかけないようにもっともっとみんなのことを考えていきたいです。今度は、次のステージで成功させたいと思います。陸上は今しかできません。みんなでできるのは今しかありません。みんながいて、みんなの声があるから頑張れました。集団って本当にすばらしいと思いました。みんなも集団を利用して自分を変えていってほしいと思います。まだ夜に卒コンもあるので、そのときにまた話しましょう。

荒木 孝文
 こんにちは。川本先生ご指導ありがとうございました。卒業式の前に朝練をしてこっちに来たのですがやっぱり自分は走ることが好きなんだと感じました。福島大学には一年浪人してから入学したので、一年九か月ほど練習していませんでした。福島大学に合格してまた陸上ができると思いました。でも、周りのメンバーは高校の時インターハイで何位になったとかいう奴ばかりで入るとこ間違えたかなぁ?と思いました。自分は高校の時はインターハイ予選も駅伝もでることができなかった。浪人して走っていなかったため体重も増えていたので、大学に入ってものんびりやっていました。でも、それがよかったみたいで秋までに体がしぼれて、だいぶ走れるようになって東北学生駅伝では最長区間のアンカーをまかせてもらえるまでになった。でも、そのとき先輩のつないだ襷の順位を落としてしまった。そこは悔やまれるところだった。
 2年生のときに日本インカレのハーフマラソンを見てハーフマラソンで日本インカレに出たいと思った。だいぶ記録も伸びて、今はもうなくなってしまったが、青森東京間横断駅伝にも岩手代表で走ることができた。そのとき、福大の前を走る区間を走る予定にもなったのですが直前になって走れなくなってしまったこともありました。3、4年生のときは記録が伸びず悩みながら走ってきました。4年生のときの東北学生総体では途中棄権してしまって、まさと遠藤と病院に行った。そのときはもう駄目かと思った。でも四年生を始め下級生の皆さんに励まされ満足行く形で終わろうと思った。それでなんとかもう一回頑張って、個人戦での復活をみんなに見せたいと思った。個人戦で復活の走りができて、あとはベストを出そうと思って5千、一万、ハーフを走って、マラソンも走った。自分の目標としていた記録は出せなかったが頑張ることはできたと思う。
 四年間を通じて感じたこととして、みんなに言っておきたいことは自分のやりたいことに対してポリシーを持ってやってほしいということ。信念がなければ自分がわからなくなる。例えその信念が間違っていたとしても影で見ている人がいる。自分にだってここまでやることができたんだからみんなにはもっと可能性があるはずだ。これからは自分の出身高校でもある岩手の高田高校での数学の講師が決まった。なんとかやれる範囲でこれからは走っていこうと思う。サングラスをかけて走ってるので見掛けたら声を掛けてください。

千葉 雄治
 川本先生4年間、陸上以外にも、生活面でも色々なことを指導していただき、本当にありがとうございました。真紀子さんは4年間、池田さんは高校から今までお世話になりました。
 春合宿から練習に参加し、かなり厳しい練習で、ついていけるのか不安だったことを今でも覚えています。高校のときは全然走ってなかったので、ジョックでもついていくのがやっとでした。お盆に実家に帰ったときは、このまま家にいて部活を休もうかとも思いました。でもそんな時、父親が人事で別な仕事をすることになり、母親に仕事をやめたいと言っていました。でも父は、僕が大学を卒業するまでは仕事を頑張らなきゃなと言っているのを聞きました。その時僕はまたやろうという気になりました。そして今まで当たり前と思っていた仕送りのありがたみを改めて実感しました。自分がどんなに辛くても、社会に出て働いている両親の方がもっと苦労している。なので苦しいときは、多くのことに支えられているということを思って頑張ってください。4年生は4年間、3年生は3年間、2年生は2年間、1年生は1年間、迷惑をかけたけど、このメンバーでやってこれて本当に支えになりました。皆さんも、いい仲間を作って、心の支えにして下さい。

橋本 翼
 川本先生、4年間色々とご迷惑おかけしました。ご指導ありがとうございました。自分で言えることで人に言えることはあまり無くてでも一番、大きく成長できたかなって言うことはあって、初めて遠出して青森から電車で仙台に来てすっごい大きいビルを見て窓に顔くっつけて田舎丸出しでした。一番印象に残っているのは坂の200m5本じゃなくてjogから始めて、100mを坂水と走ってどっこいどっこいだった事です。そのとき感じたのはすごい女がいるなぁ、強すぎると。自分はやっぱり弱くて1・2年は逃げたる逃げたるで、そうこうしているうちに1年の終わりにもうだめだと当時の跳躍ブロック長の登藤さんにやめたいといったがダメだといわれました。「お前はミラクルを起こすからダメだ」と言われ、その後ちゃんとお前は絶対成長できるからやり通せといわれ、その後三年生以上は知っていると思いますが重大な事件を起こしまして、今ここにたっている自分が4年間やり通せた事、周りに何も返せなかったけど川本先生を初め周りに支えられてやり通せた事、田舎丸出しで一人で暮らしてこれたこと、アルバイトして成長できたことも陸上部に入ったからだと思います。体験してみてわかったことが、4年生になってわかって、体験してみることが大切だと思いました。みなさんも色々な体験をしてみてください。今は生物の研究室にいるので卒業には通年とのことでもう一年福島に残ります。今はいのししの調査をしています。1年間福島にいて、ゲオにもいるのでご用があれば来てください。
冨田宏幸
 川本先生4年間ご指導ありがとうごさいました。僕は小学校5年生から陸上を始めて大学4年生まで12年間陸上をやってきました。小学校の時の先生と高校の先生が、福大陸上部のOBで、私の陸上の原点は福島大学陸上競技部にあると思い、将来は福島大学出身の陸上を教える先生になるのが夢でした。本当は別な大学に行きたっかたのですが、最終的には福島大学を選びました。入学式の次の日に初めて練習に参加し、最初のメニューが坂ダッシュ200m5本×2セットで、本当に参ってしまいました。次の日には、部活にいくのが憂鬱になりました。でも新しい環境の中でやっていくことが大切だと思い、練習を頑張りました。1年生のときの新潟での夏合宿で足を怪我してしまい、練習ができなくて、僕は駐車券係を任されました。1日目、2日目は仕事がもらえて嬉しかったのですが、だんだん嫌になりました。3日目のときに川本先生に、「どんなに小さな仕事でもプロフェッショナルになるのは良いことだ」と言われ、それがあってから、僕の中で考え方が変わり、小さなことでも頑張ろうという気になりました。4年間を振り返り、何か一つでもプロフェッショナルなものになれたか考えてみました。陸上競技においては思い当たるところがなかったのですが、大学4年間で大会以外で授業を休んだことがないのが僕の自慢です。冬期練が本当に苦手で、久保倉は2月、3月が一番嫌だと言っていましたが、僕は11月後半から3月までが大嫌いでした。でも辛いと思っているのは自分だけではなく、周りの仲間もそう思っていたということを考えると、自分も頑張る気になれました。僕がここまでやってこれたのは、周りの人たちが支えてきてくれたお陰です。遠征費やジャージ代を惜しみなく出してくれた両親、それから先輩や後輩にも本当に感謝しています。僕の大学4年間は、支えられて育った4年間でした。4月からは社会人なので、自分が今まで支えられた分、支えてあげる人になりたいです。
●白浜 佳苗
 川本先生、4年間迷惑をかけ、見放さずにいてくださってありがとうございました。
 私がなぜ福島大学に入ったかというと、最初は中学校の時から体育の先生になりたいと思っていたので北海道教育大学に入ろうかと思っていました。福島大という選択もありましたが、福島大には木田がいるので体育は専攻できないので迷っていました。高校のときお世話になった恩師の先生にとりあえず福島大の経済学部に入ってそれから体育科に編入できるといわれ、福島大に入りました。入学してからそんな制度はないことを知りだまされたと思いました。
 最初、高校1年のときに私は陸上がすごく嫌いになりましたが、高校の恩師のおかげでこの道に来ることができたので、まだ自分の可能性が見えていなかったし、自分の可能性が見えたときに陸上を続けるということに魅力があると思いました。もう一回福島大学で陸上を好きになれたらいいと思っていました。
 私は中学校で短距離をやっていて高校で走れなくなって、100メートルのスタートに立つことにコンプレックスがありました。川本先生にもう一度走ってみないかということを言われましたが、生意気にも嫌ですと答えました。これからは跳躍でがんばろうと思った。池田さんのすごさを大学に入ってから知り、それからはずっと池田さんについていきました。怪我のスタートでした。ずっと池田さんを見ていて、池田さんの跳躍を一本見るために、懸垂を10回やらないとだ駄目というような条件をつけながら練習しました。
 その後、足の裏に変な腫瘍ができて歩くのも痛くなった時に川本先生が送り向かいをしてくれて、すごくお世話になりました。その時に走ることの魅力教えてくれた。もう一度自分を信じてみようと思って短距離ブロックに移りました。
 それからは怪我ばっかりでなんでこんなに不運なんだろうと思っていました。補強ばっかりで補強は強くなっていくけど走ることは全然できませんでした。そのうち自分は陸上が好きなのかと考えたときにやっぱり好きになれていなくてずっと好きになりたいと思っていたのにできていなくて。中学校のときから精神的に全然成長できていないんだなぁと思いました。
 2年の冬に考えたのは短々で練習していて、大会では練習しないで幅とびに出ていました。いっそ跳躍ブロックに移って練習して大会に出ようと思いました。3年の冬はいつもより怪我が少なくて練習ができて、東北インカレで3段デビューして今の私がいます。
 4年間振り返ってこのまま続けても何かいいことがあるだろうかと何度も考えた。お母さんには何か得られるものはあると言われ私もそう思った。4年間続けて得られたものは陸上で成功している自分とは違ってもっといいものが得られていました。
 仲間もそうだし、礼儀も身につきました。1年生のときはすごく怒られてなんでこんなに怒られないといけないんだろうと思っていたしすごく嫌だった。でもうるさいぐらい注意してくれたおかげで本当にいろいろ学べて成長できました。
 私はこれから社会人になるが、今まで高校生から変わっていないことに気づいて、これからのことにすごくわくわくしている。4年間で得たもの、先生の言葉、チームのことを思い出しながら本当に変わりたいという目標を持っています。今の自分より一目見ただけで違うとわかるぐらい大きくなりたいと思います。
 競技にはみんな山もあるし谷もあると思う。陸上に対して素直な気持ちが持てない人もいるだろうけど、絶対得られるものがあります。4年間は人生の一部だけど、その4年間は本当に大きな4年間になるようにしていってほしいです。

渡辺 雅律
 まず初めに卒業後のことなんですが、神奈川の株式会社パルで簡単な幼稚園の体育の先生や小学校のスポーツクラブの先生などをやります。1ヶ月前から研修に行っていて、昨日帰ってきたばかりで、明日の朝また出かけなければならないので、卒コンにも出れないのが残念です。何を話せばいいかわかりませんが、天海も言ったのですが僕もケガとの戦いでした。福大に入って今となっては投擲、混成なのですが、初めは跳躍ブロックでした。入学して、周りがみんなすごい人ばかりで、自分はたいしたこと無いなと思いましたが、負けたくないと思って練習していたら、腰が痛くなっては知れなくなってしまいました。夏に先輩から、混成をやってみたらどうだと言われて、興味があったのでやってみたらそこから調子が良くなってきました。個人戦で初めて10種をして8種目目の棒高跳びで3mの高さから落ちて捻挫をしてしまいました。冬季錬も棒に振ってしまいました。ウェイトばかりしていて、体が5キロ筋肉に変わって2年の秋の個人戦で調子が良くて、来年はいけるからなと思っていたら終わってみると足首が痛くて、冬季練が出来なくなってしまいました。なぞの足首の痛みが3年生になってもとれずに東北インカレで10種に出るか先輩に任せました。そして今は無理だと言うことで、インカレ後に足の状態も良くなってきたのですが、北日本のハードルで足首にひびが入ってしまい、そこから練習ができなくなって、3年生のときはケガを治すために練習をしませんでした。完治して、冬季練を迎え、順調にこなして、4年はいけると思いました。4年のインカレで初めて6000点の目標を超えれたのですが、東北のレベルが上がっていて、結局3位で全カレには出れませんでした。その後目標を見失って、やる気のない部分もあって、何しているんだと思っていたのですが、あるとき、もう一回ちゃんとやろうと思って、最後の個人船に照準を合わせて個人戦で優勝できて、表彰台の一番高いところに立てて、気持ちよかったです。今までの競技人生の中で、一番よかったです。4年間で一番納得のいく試合でした。私は走り高跳びが下手で、いつも160cmがアベレージでたまに165を跳ぶくらいだったのですが、最後の試合では170cmをとんで175も跳べて、何でそんなに跳べたのかと思うと、雄三のおかげだなと思いました。雄三は補助員をしていて、「雅さんいけますよ、いけますよ」と言ってくれたおかげかなぁ...そんなんで、仲間の支えが大切だなぁとおもいました。今、陸上から離れてみて、自分はすごく動きたいんです。動いていないとダメで、うずうずしていて家でも逆立ちをしています。陸上から離れるのは考えられなくて向こうでも、クラブに登録したり、小さなチームに入ったので、出来る範囲で自分で練習して、出れる範囲で陸上を続けたいです。関東で試合が会ったときは応援に行きます。ありがとうございました。